渋谷の地名の由来

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渋谷の地名の由来渋谷の地名の由来

渋谷の地名の由来

渋谷の地名を調べてみると由来はいくつかの説があり、はっきりした定説はありません。

渋谷の由来

塩谷説

今の渋谷付近は昔は入り江であり、「塩谷(しおや)の里」と呼ばれていました。
その「しおや」が「しぶや」に変化したとする説。
渋谷全体は谷盛庄と呼ばれ七郷に分かれていて、その一つが渋谷郷という名だったという伝承があります。

盗賊の名前説

平安時代の終わりごろ、今の渋谷あたりは「谷盛」という地名で呼ばれていました。
領主は河崎重家でした。
その河崎重家が京都御所護衛の仕事をしていた時に御所に侵入した盗賊を捕えました。
この賊の名を渋谷権介盛国といいま した。
その時の天皇であった堀河天皇が、その手柄を称して、河崎重家に「渋谷」の姓を与えました。
このことから、重家の領地であった谷盛が「渋谷」に変わったとする説。
(なぜ手柄なのに盗賊の名を与えたのでしょう?なんだかこの理屈がよくわかりません・・・)

武士の名説

平安時代末期から戦国時代にかけて相模国高座郡※の荘園であった渋谷荘を本貫とした武士の一族、渋谷氏宗家(相模渋谷氏)が新たに谷盛の地を領地としたために、その名字をからここが渋谷という地名になったとされている説。

※相模国高座郡とは神奈川県大和市渋谷および小田急江ノ島線高座渋谷駅周辺

シブ色川説

この地を流れる川の水が、鉄分を多く含み、赤さび色の「シブ色」だったため「渋谷川(シブヤ川)」と呼ばれていたとする説。

関東ローム層は富士山や箱根の噴火で放出された火山灰が、偏西風に乗って流れてできた赤黒い土の層をなしていて、鉄分が多く含まれます。そこに染み込んだ雨水が川に流れ込むと川の色が渋色(さび色・赤茶色)になります。
実際、今も渋谷の井戸水は全国平均の24倍もの鉄分が検出さるそうです。

しぼんだ谷あい説

渋谷川の流域の低地が、しぼんだ谷あいだったからとする説。
ちなみに、両岸の迫ったシボんだせまい谷川に由来する地名は、全国的に渋沢・渋川・渋谷・渋谷など分布しています。

渋谷区内の地名

幡ヶ谷(はたがや)

伝説によると、後三年の役の後、永保二年(一〇八二年)に源義家が奥州征伐を終え、白旗を洗い云々という「旗洗池」に由来します。(武蔵風土記稿・渋谷区史)。本町一丁目に旗洗池があったとされます。この池は、昭和38年に埋め立てられ、その旗は金王八幡宮の社宝となっています。

代々木(よよぎ)

戦国時代の書状に、「代々木村」の名がすでにあり、江戸時代には大名・旗本の屋敷地がありました。
地名由来として二つの説があります。

  1. 村民が生産したサイカチの木(豆科の落葉高木)などが多く繁茂していたという説。
  2. 現在の明治神宮御苑の東門近く彦根藩井伊家の下屋敷にあった「代々木の大樅」といわれた樅の老木に由来する説。

現在は残っていませんが、井伊家 の下屋敷があったころの大樅は、当時の記録に残るほど大きなものでした。
黒船が江戸湾を測量していたころ、その動静をこの木の上から見張らせ、桜田門外の 上屋敷に報告させたそうです。

広尾(ひろお)

昔はツクシが生えていて、「土筆ヶ原」といいましたが、その後「広野」となり、元禄検地(1688年~1703年)のころから「広尾」と呼ばれるようになったそうです。
古くは渋谷村の広尾原と呼ばれる鷹場があったそうです。由来は鷹場の尾根が続いていた所ということでしょうか。寛文八年(1668年)に町屋ができ、早くから開けた土地です。

恵比寿(えびす)

明治20年、恵比寿4丁目にビール工場が誕生、2年後にできた製品は「ゑびすビール」と名づけられました。
その積み出し駅は、「恵比寿駅」と呼ばれました。
昭和3年には、駅の東側から港区白金に向うバス通りに沿って、恵比寿通り1・2丁目という町名がつきました。
戦後、区画整理や住居表示の際、「恵比寿」の名のつく町名が起こり、現在に至っています

笹塚(ささづか)

由来は甲州街道一里塚にちなみます。その両側に塚(盛土)があり、その上に笹が生い茂っていたことから「笹塚」と呼ばれるようになったといいます。
この塚は、慶長9(1604)年に大久保長安により設けられたといいます。
また、天保14(1843)年の村差出明細帳には、「一里塚、村内字笹塚と申所往来左右に御座候」とあります。
大正5(1916)年刊行の『豊多摩郡誌』には、甲州街道の両側に塚があったが、すでに見られないと記してあります。
元は幡ヶ谷の字(小名)でしたが、昭和三十五年に町名として成立しました。

千駄ヶ谷(せんだがや)

昔、このあたりは見渡す限りの茅野原だったそうです。
『新編武蔵風土記稿』には、寛永年間(1624年以降)の頃、日々千駄の茅を刈り取ったことからこの名が起こり、正保年間(1644)に千駄萱村と書きました。
現在の「千駄ヶ谷」と書くようになったのは元禄年間(1688年以降)と伝えられています。
また、昔、太田道灌がこのあたりを巡見したとき、谷間に栽培されている稲が千駄もあったので、千駄ヶ谷と名づけたとも言われます。
駄とは、馬1頭が背にする荷物を数える単位です。
千駄とは、”それほどたくさん”という意味です。

代官山(だいかんやま)

「代官山」という地名は、江戸時代の小字名として登場しています。
代官の屋敷があったからとか、代官の持ち物の山林があったからとか言われています。
しかし、その名の由来を示す資料は残っていません。
もとは山林で、現在のようになったのは、関東大震災以降のことです。

道玄坂(どうげんざか)

江戸時代に作られた地誌類によると、和田義盛の残党、大和田太郎道玄が、大永4年渋谷氏滅亡後にこの坂に出没して、山賊野党の振る舞いをしたと伝えられています。
また、『天正日記』によると、道玄庵という寺の庵主が徳川家康に由緒書を出していることから、その寺の名をとってこの名がつけられたとのことです。

富ヶ谷(とみがや)

このあたりは、昔、「留貝」という地名で呼ばれていたそうです。
それは、富ヶ谷の低地、1丁目から代々木公園駅にかけて、地下10メートルほどのところが一面に貝の化石層だったからです。この「留貝」が「富ヶ谷」に変わったといわれています。